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大学生活を振り返って

 大学・大学院の6年間を振り返って,自分にとって何か成長できただろうか?そして何か変われたのだろうか?

 

 大学に入学した頃はこれから始まる大学生活に胸をときめかせていた.高校時代は勉強漬けの毎日だったので,やっとそこから解放されて勉強はほどほどに頑張りながら大学生活エンジョイする気満々でいた.ビラロードで渡された無数のビラを見ながらかなりたくさんのサークルを回ったが,ウェイ系のサークルは自分には向いていないし,かと言って少し運動もしたかったので山を回ってチェックポイントを探すサークルに入った.多分ここが見てきた中で一番居心地が良かったのだと思う.そして類は友を呼ぶと言ったら語弊があるかもしれないが,自意識過剰系やウェイ系の人はほとんどいなかったので安心できた.しかし学科の方には見るからに「俺って勉強できるんだぜ!」オーラを醸し出している人がわんさかいて,極力その人たちと会話するのを避けていた.その結果,学科内の知り合いは4人程度だったが,幸いとてもいい人たちばかりだったのでありがたかった.

 

 3回生になり,当時サークルも学業もぼちぼちという感じで,何か物足りなさを感じていた.確かにそれなりに楽しいのだが,1回生の頃別のサークルを選んでいれば,そして自意識過剰な学科の人たちともしっかりとコミュニケーションをとっていればもっと有意義な学生生活を送っていたに違いないと心のどこかで感じていた.そんな折,森見登美彦の「四畳半神話大系」を読んで心に染みわたった.そこに書かれていたのはまさに当時の自分の心境そのものであり,別のサークルを選んでも結局は同じ運命を歩むことになるという話に納得し,それからは今自分が置かれている場所で精一杯楽しもうと心に決めた.四畳半神話大系は賛否両論あり,全然面白くないという人も一定数いるようだが,自分の中では間違いなくナンバーワンに面白かった.ありがとうモリミー.

 

 4回生で研究室配属される際,ホワイトな研究室もいくつかある中で,自分がもっと勉強したい分野の研究室を選んだ.その研究室はある程度厳しいとは聞いていたが,分野的にはとても面白そうだったのとせっかく大学院まで行くつもりなのだからしっかり何かを身につけたいという気持ちがあった.先輩方も優しくまためっちゃできる人たちばかりだったので,最初の半年間は院試の分からない部分を教えてもらったり研究室で飲み会やったりととても楽しかった.しかし院試合格後の卒論執筆で初めて自分が人並みしかできない(もしくはそれ以下の)人間であること,そして研究には向いていないことを悟った.テストで点を取ることと研究できることはほぼ同値であると考えていた自分が馬鹿だった.この研究生活があと2年も続くと思うと耐えられなかった.

 

 M1の夏,指導教員の逆鱗に触れた.事の顛末はここでは述べないが,とにかくものすごい形相で怒られて大学院を辞めようかとも考えた.そんな折,研究室の同期に話を聞いてもらって励ましてもらって何とか立ち直ることができた.また先輩方にも励ましてもらって,研究室の人たちの心の優しさに触れた.本当にいい人たちだなと心から思ったし,自分も人が困っているときに迷わず手を差し伸べてあげることができる,そんな人になりたいと強く思った.2ヶ月くらい口を聞いてもらえなかったが,何とか指導教員とも仲直りできて,研究自体は楽しくないが研究室が楽しくて大学院の2年間を過ごした.

 

 6年間を振り返ってみて,何か変われたことがあるとすれば「どんな道を選んだところで結局は同じ運命を歩むのだから,自分が置かれている状況下で精一杯楽しみ,人に優しく頼り頼られる人になりたい」というところだろうか.社会人になってもこの言葉を胸に刻んで歩んでいきたいと思う.

 

P.S. 最後になりましたが大学時代は大変お世話になりました.多分これからもこんな調子でのらりくらりと生きていくことになると思います.またどこかで見かけられましたら声をかけて下さい

左利きでも悪くはない

私は左利きである.そして右利きの人はあまり感じたことがないだろうが,世の中は右利きを前提として作られたものや仕組みが意外とある.そのため毎回それらのものを使うときに左利きの人は苦労するのである.一番苦労するのがはさみだ.もちろん左利き用のはさみも世の中には存在し,左利きの人は十中八九そのはさみを使っているのだが,時々マイはさみを持ち合わせていない時に,はさみを使わなければならない状況が訪れる.そのような場合ははさみをパッと渡されて,「これ切っといて」とか言われるのだが,まあ右利き用のはさみでは切れない.右利き用のはさみを強引に左手で使おうとすると,全くもって切れないかもしくは切り口が汚くなるかの二択である.じゃあ右手で切ればいいじゃないかという右利きの人からの鋭いツッコミが飛んで来そうだが,そちらも上手く力が入らずに切り口がふにゃふにゃになってしまう.結局「すいません,私左利きなんで左利き用のはさみありますか?」って聞くと「じゃあもういいよ,別の人にやってもらうんで」とかなってとても申し訳ない気持ちになる.どうせ相手からしたら「はさみもろくに使えねぇのか,使えねぇ奴だな」とか思われているのだろう.他にも駅の改札機やおたまなど挙げだしたらきりが無いのでこの辺でやめておく.

 

さて本題に入るが,もちろん左利きで苦労する面もあるが,実は得することもある.まずはスポーツに関して,左利きの選手は有利に働くケースが多い.例えば野球では左打ちの方が内野安打での出塁率が高くなる傾向にある.実際日本のプロ野球選手の中では左打ちの選手が多い.まあここまで聞いて「どうせスポーツを生業とする人にとってはそうかもしれないけど,素人じゃ特に得にはならないでしょ」というツッコミが入るだろう.まあ確かにそうだが,左利きだと「あいつ左利きだな」って高い確率で言われる.私はそんなに野球は上手くなかったが,それでもなんか話題にしてくれるだけで嬉しい.さらに中学時代にサッカー部に所属していたのだが,たいして上手くもなかったのに左利きという理由で左サイドのバック(守るポジション)かハーフ(攻めるポジション)で試合に出してもらっていた.この時は左利きで良かったと心から思った.右利きで私より上手い人は何人かいたのに,その人たちを差し置いて試合に出場できたのは間違いなく左利きのおかげだろう.

 

日常でも左利きの良さを実感できた場面はいくつかある.一例として,4人くらいでご飯に行くとき,左利きの人は必ず座る位置を気にする.間違った場所に座ってしまうと食事中隣の人と腕が当たり,非常に食べづらい.そのため座る前に必ず「私左利きなんで奥へどうぞ」と言ったり,「私左利きなんで奥へ座りますね」と言ったりして隣の人の迷惑にならないよう気をつける.そうすると「〇〇さんって左利きなんだね」っていう振りが飛んでくるので,そうなったらもうこっちのもので「箸とかボールを投げるのは左利きなんですけど,鉛筆は矯正されて右で書くんです!だから右手で書きながら左手に消しゴムを持てるのでとても便利です!」とかいう,冷静に考えたらいつ使うのかもよく分からない謎の特技でひと笑い取ることができる.まあ実際この特技はマーク式の試験とかで最後の最後にミスに気づいてわあわあなってる時に使うことができるので,役に立たないこともない.

 

結論を言うと確かに今の社会では左利きの人は住みにくい世の中かもしれないが,話の種としたりする分には悪くないと思う.あとは左利きの人同士で「この機械とか左利きには使いづらいよねー」って言う話で盛り上がれる,左利き用の商品を見つけた時にとてもテンションが上がる等があるだろう.マイノリティはマイノリティなりの工夫をしているということを,マジョリティの人たちは完全に理解してほしいとは言わないまでも頭の片隅においてほしいものである.

便利になるという意味

 情報化社会の発展で世の中はますます便利になってきている.例えばスマホ1つでほとんど何でもできるようになっていると言っても過言ではない.ネットショッピングで欲しい商品を見つけたらその数日後にはその商品が家に届いているだろうし,クレジットカードや銀行口座まで作ることができる.今回はその中の一例として地図を取り上げてみることにする.

 

 まずスマホで地図アプリを開いたとき,大抵の人は自分の位置情報が表示されるのではないだろうか.そして目的地を入力し,その案内に従って進めば難なく目的地に到達することができる.自分の位置が地図上に絶えず表示されていることで,自分が現在どの位置まで来たのかを瞬時に把握することができ,目的地に向かっている途中で道に迷うということも頻繁には起こらないであろう.この機能はとても便利なのだが,果たしてこのような地図アプリにおいて,地図そのものとGPS機能とどちらが重要なのだろうか.もっと噛み砕いて言えば,GPS機能のない地図アプリをどれほどの人が使いこなせるのだろうか.

 

 ここからは少し自分の話になるのだが,私の使っているスマホはかなり旧機種なものでGPS機能がうまく作動しない.そのため普段はGPS機能のない地図アプリを使って生活をしている.これは言うなれば紙の地図を電子版にしただけのものである.自分の位置が表示される訳でもないので目的地に行きたいときはまず自分の位置を把握し,次に目的地を地図上で探して(検索機能は使える)その目的地に行くにはどの道を通れば良いのかを自分で判断する必要がある.一応ナビ機能もあって道案内はしてくれるのだが,あまり使ったことはない.要するに地図を読んでいるのである.そもそもきちんとGPSの作動するスマホを未だかつて手にしたことがないので,他の人もこのようにして地図アプリを使っているのだと最近まで思っていたが,どうやらそうでもないらしい.どうりで私がスマホ片手にキョロキョロと辺りを見回している中,他の人たちは何の迷いもなくスマホ片手にスタスタと歩いていけるものである.

 

 さて本題に戻ろう.上記のように私の場合はGPS機能のない地図アプリでも特に問題なく使いこなせるのだが,今GPS機能付きの地図アプリを使っている人にGPS機能なし版を渡したら上手く使いこなせるのだろうか.言い換えればGPSに頼りきっている人たちが地図を読むことができるのだろうか.もちろん小学校で地図を読む授業とかもあるはずだし(少なくとも私の時はあった),GPS機能が出現したのはここ最近の話であるから昔の勘があるとかいう方々も多数いるだろう.しかしながら一度経験した事柄でもどんどん忘れて行くのが人間である.地図を読む能力を養っていかないと,すぐに地図が読めなくなるだろう.

いや,そんなことはないと考える人は携帯電話に登録されている知り合いの電話番号をいくつ覚えているだろうか.1度番号を登録しておけば次回以降は電話帳データからすぐに電話をかけることができる現在,自宅の番号と家族の携帯番号以外に覚える必要など無いに等しい.私が子どもの頃は自宅の固定電話の前に手書きの電話帳があって,それを見ながら電話をかけていた.そのため電話をかける前に電話番号を打ち込む(私の場合は黒電話だったので回すという表現の方が正しいが)作業をする必要があり,友人の電話番号くらいは覚えることができた.当然今はそんなことはしていないのでその友人の番号も覚えていないし,もし何らかの拍子で携帯電話内の電話帳のデータが全部飛んでしまったらもう電話をかけることができないなんてこともあるのかもしれない.

 

話を戻すが別に「いざという時(例えばGPSが上手く作動しないとき)に困らないために地図を読む能力を養っておくべきだ」ということを主張したい訳ではない.それなら電話帳は紙にすればいいし,少なくとも自ら選んで便利になっている訳だから(もちろん否応無く便利になったために自分の意志に反して退化してしまったと主張する人もいるだろうが)あらかた自業自得とも言えるだろう.そうではなくて,私が言いたいのは「ミスをすることを楽しむ」ということである.地図を見ながら自分はいったい今どこにいるのだろうかと迷い,周囲を見回して自分の居場所を把握しようとする.そうすることで何か分かることもあるだろうし,やっぱり何も分からないこともしばしばある.少し歩いてみて間違っていると分かったら引き返せばいいし,周りの人に道を尋ねるのでも良い.そうすることで道のりが記憶されることはもちろんのこと,(私だけなのかもしれないが)とにかく迷うことが楽しい.最近は人に道を尋ねられることはめっきり少なくなったが,人と人とのコミュニケーションは本来このようにして育まれて行くのではないだろうか.

 

 スマホという便利な機械の登場によって,知らず知らずのうちにミスをする機会や見ず知らずの人との対面によるコミュニケーションの機会が失われているとすれば,やはり便利になり過ぎるというのもいささか問題なのかもしれない.

 

追記

 調べてみると不便益システム研究所なるものがありました.便利な時代になったからこそ不便の良さを再発見しようとするものです.京都大学素数ものさしもこの不便益の一種らしいです.学問としてきちんと成立しているのはちょっと感動しました.

 

不便益システム研究所

 

素数ものさし

京大グッズ - 【B25】素数ものさし

自己紹介

経緯は色々ありますが,ブログを始めてみることにしました

まずは自己紹介から

  • 理系の大学院生です

普段は研究室にいます.特筆することは特にありません.平々凡々な学生です

 

ブログで書いていきたい内容

  • 日々思っていること・考えていること・疑問に感じたこと(あくまで個人の見解として解釈いただければ幸いです)
  • 数学的なトピック(今のところ未定ですが,何か面白いトピックがあれば紹介するかもしれません)
  • プログラミング的な何か(こちらも今のところ未定です)

 

という訳で,果たしてどうなるのか分かりませんし,そんなに頻繁には更新しないとは思いますが,どうぞよろしくお願いします

ではでは